区別できる身体性を持った存在としてであり、 カルフォルニアのアグリビジネスで働くことができるが、 じつは厳密には ・グローバル市場においての決定の指針たるデータベース  文化的諸制度という保護の覆いが取り去られれば、 テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』の、 一つには、 《JKビジネス》や《貧困ビジネス》、  やがては滅びてしまうであろう。  いやそれどころか、購買力の量と使途とについてそれを許すだけでも、 特定の薬物は違法だと考えられている。 〔C.K.Lee, Gender and South China Miracle 〈主要な4つの特徴〉について、 日本の政治なんて、国際的には影響力ゼロなんだから。アメリカ合衆国の属国みたいなものだし。, 現今、日本や世界の問題を語るうえで「新自由主義」の概念を抜かすことはできない。そして新自由主義をめぐる議論で、頻繁に引用・参照されるのが本書である。あまり軽々しく使うべき言葉ではないが、この問題を論じるうえでの「必読書」だと言っていいだろう(原著は2005年刊)。 ⇒強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約に発揮されることによって人類の富と福利が最も増大する その思想は階級の再編成のために援用されるようになる。金を持つものが、更に多く持てるようなシステムを作る為にである。そのために、公的資産の民営化、社会保証の縮小、自由貿易の促進のための規制緩和といった政策が行われる。完全雇用や社会的保護に重点を置く従来型のケインズ型の福祉国家の解体である。 そのほか第5に、ハーヴェイは新自由主義国家がこれからもどこかに誕生してしまう可能性と危険性に警告を与え、第6に、地理的不均衡が南米などにもたらす歪みを警戒した。 また第7に、新自由主義が新保守主義と混血し、これからも混血するだろう異常を縷々叙述し、第8 ポランニーの最後の論点を あまりにもよく立証している。

そして、メキシコ、アルゼンチン、韓国、スウェーデンなのにおける地理的不均衡発展について言及し、中国的特色のある新自由主義にも触れている。 (引用者中略) 新保守主義者は概して、 彼が「改悛の情を示しており」「火事のあと協力的だった」からであった。 商品として描くのは、 無形の利益をもたらす。 アステカ遺跡の利用料やアボリジニー芸術の売買などをめぐって)、 話はまったく異なっている。  「美しい国」?ホワイトカラーエグゼンプション?…そろそろやられっぱなしは終わりにしませんか?, ネオリベラリズムの潮流、および実態について。 ◆コロナと猛暑とリモートワークで日本がおかしくなっている。だいたいGOTOキャンペーンが最悪の愚策だった。そこに自治体首長たちの自粛要請、保健所とPCR検査の機能麻痺、しだいに重々しくなってきた医療危機、発言確認ばかりで満足しているリモートワークが重なり、それに猛暑日・熱帯夜・熱中症が加わった。おかしくないほうが、おかしいほどだ。◆外出自粛でコトが済む時期はとっくに過ぎた。水道の元栓を開いたままで蛇口の分量を調整しようというのだから、これではコトの予測さえ成り立たない。そこをたんなる自粛で乗り切ろうとすると、「いびつ」がおこる。外出先を制限すれば、居住性のほうに危険が移る。いまや危険なのはキャバクラやホストクラブではなくて、家庭のほうなのである。お父さんが自宅で仕事をして、大きい姉さんが仕事場に出られず、弟が学校に行けず、早やめに小学校から帰ってきた末っ子が騒ぎ、いよいよ爺さんか婆さんが勝手な望みを言い出せば、母親は苛々するばかりだ。おかしくならないほうが、おかしい。◆ところでコロナ・パンデミックについての論評には、まだ芳しいものがない。なかでイタリアの素粒子物理学者パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』(早川書房)は、コロナ発祥拡散直後の3月に書かれたエッセイで、1カ月ぶんの激変の中で綴られた、涼やかだが、思慮深いエッセイだった。◆ジョルダーノが言いたいことは次の5点だ。①いま僕らの頭脳が試されている、②われわれはまだ複雑性についての対処に取り組めていなかった、③感染症の数学として、感受性人口(Susceptibles)、感染人口(Infection)、隔離人口(Removed)の3つのパラメータによるSIRの計算が必要である、④市町村の単位ではない共同体についてのモデルを考えなければならない、⑤感染症の根本要因は僕らの軽率な消費活動にある。◆日本ではダイヤモンド・プリンセス号に入った岩田健太郎の『新型コロナウイルスの真実』(KKベストセラーズ)や病理医の堤寛による『感染症大全』(飛鳥新社)などのような啓蒙書か、富山和彦『コロナショック・サバイバル』(文芸春秋)、高橋洋一『コロナ大不況後、日本は必ず復活する』(宝島社)、ムックの『アフターコロナ』(日経BP社)などの経済コロナ対策本が多い。緊急に小説も書かれた。たとえば海堂尊の『コロナ黙示録』(宝島社)だ。海堂得意の桜宮サーガのバチスタ・シリーズに乗せた政権批判小説だった。病理と国際政治学との関連性にふれた詫摩佳代の『人類と病』(中公新書)もあった。◆野田努君らのエレキング・ブックスからは『コロナが変えた世界』(Pヴァイン)が刊行された。ブライアン・イーノとヤニス・ヴァルハキスのポストコロナ社会のヴィジョンをめぐる対談が目玉になっていたので期待したが、これは得るものがほとんどなかった。イーノがこんなにも能天気だとはがっかりする。それより内田樹、宮台真司、上野千鶴子、篠原雅武に対するインタヴューの答えのほうが、ずっとおもしろかった。◆内田は、コロナ問題でまたまた日本の統治機構の劣化と、日本人が「ものさし」をつくっていないことが露呈したと指摘。『方丈記』とともに漱石の『草枕』を推薦しているのが粋なはからいだ。上野の指摘はすべての問題は平時の矛盾が有事に出てきたという見方が一貫して、ゆるがない。女子問題にまったく言及しない小池都知事に苦言も呈した。篠原は「人新世」の前触れとしてコロナ禍をとらえ、マイク・ディヴィスやデイヴィッド・ウォレス・ウェルズの素早い反応なども紹介していた。◆宮台は、各社会の危機管理の性能とその性能に応じた社会の支えがアンバランスであることを指摘したうえで、アメリカにはアレとコレが両立しない共時的矛盾があるが、日本にはかつての作法が通用せず、それなのに今日に通用する作法がまったくできていないという通時的矛盾がはびこっていると強調した。これは当たっている。ようするに日米両方ともにゼロ・リスクを求めるために思考停止がおこっているわけで、宮台としてはそれを突破するには「もっと絶望を」ということになる。◆多くの識者を集めた『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』(河出書房新社)も緊急出版だったが、こちらは一番大きな展望を提供した大澤真幸、シニカルな與那覇潤・笙野頼子、病理の仲野徹、アフリカ研究の小川さやか、ドゥルーズ派の堀千晶などが読ませたが、全体としては目次もあとがきもない促成本だ。ところで、GOTOキャンペーンとともに、大きなお世話だと言いたいのが「ステイホーム」の標語だが、どこかの首長が「どうぞ、ゆっくり本をお読みください」と言っていたのとはうらはらに、圧倒的にネット読みとテレビ視聴率が上がっただけだったらしい。, ◆ぼくの仕事場は、建物としては赤堤通りの角の3階建のスペースそのものである。そこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。◆作業用書斎といってもとても小さい。部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。両方とも通信回線は切ってある。だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。◆「囲い」の書棚には、数えたことはないけれど、3000冊ほどの本がぎっしり詰まっている。思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。ただ、すでに満杯である。だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。◆作業書架「囲い」には、本と机とPCのほかには何もないが、二つだけ格別なものが用意されている。ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。ほどなくして疲れて背を倒して寝る。これはほぼ日課になってきた。◆もうひとつはこの「囲い」ができた当初から和泉が用意してくれたもので、洋服箪笥と狭いクローゼットが書棚の裏側に隠れるようにして、ある。ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。実はもうひとつ同義なものがある。それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。◆以上、ぼくは、こんな「ほんほん」な状態で日々を送っているのです。ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。, ◆自粛とテレワークが強いられているが、メディアで見ているかぎり、有事の中の緊張はないようだ。戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。◆緊急事態宣言が解かれても、ワクチンや治療剤が登場するまでは、なお異常事態が続いていくとも見るべきである。その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。経営もしだいに逼迫していくだろう。なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。◆一般に、多くの医療は「至近要因」に対処する。人間一人ずつに対処して治療する。これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。いわば人類が相手なのである。人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。◆かつて動物行動学のニコ・ティンバーゲンは、そのように「生きもの」を見る前提に「4つのなぜ」があると説いた。①適応の機能に関する「なぜ」、②系統発生にもとづく「なぜ」、③器官や分子に関する「なぜ」、④個体の維持に関する「なぜ」、の4つだ。これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。ゼツヒツの1冊だ。◆こういうふうに、われわれを「生きもの」として見る医療は「進化医学」とも言われる。進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。◆このような進化医学については、定番ともいうべきランドルフ・ネシーの『病気はなぜ、あるのか』(新曜社)が興味深かった。「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。◆進化医学をもう少し突っ込んでいたのは、ぼくが読んだかぎりでは、シャロン・モアレムの『迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか』(NHK出版)やポール・イーワルドの『病原体進化論―人間はコントロールできるか』(新曜社)だ。いずれも大いに考えさせられた。イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。, ◆先だってちょっとばかり濃いネットミーティングをしたので、その話をしておく。COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。◆毎期のHCUでは、最終回は塾生を相手にぼくのソロレクチャーと振り返りをするのが恒例定番になっていたので、一応同様のことをしようと思ったのだが、せっかくネットワークを通すのだから、過去期の塾生にも遠州流の家元や文楽の三味線やビリヤードの日本チャンピオン(大井さん)などのゲストにもネット参加してもらい、さらにイシス編集学校の師範何人かに参加を促した。◆加えてベルリン、上海、シリコンバレーからの視聴・発言も促し、過去期ゲストの大澤真幸、田中優子、ドミニク・チェン、鈴木寛、池上高志、武邑光裕、宮川祥子さんたちも、フルタイムないしは一時的に参加した。さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。◆オンライン・ミーティングソフトはZOOMにしたが、それだけでおもしろいはずがない。まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。だからテレワークをしたわけではない。ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。◆たんなるテレワークというなら、45年前に杉浦康平と毎晩2時間ずつの電話によるテレワークだけで分厚い『ヴィジュアル・コミュニケーション』(講談社)1冊を仕上げたことがあった。当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。◆というわけで4月25日は、テレワークでもネット会議でもなく、新たなメディアスタイルを試みたかったわけである。はたしてうまくいったかどうか。それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。◆かく言うぼく自身も、こんな試みを多人数でするのは初めてのことなので、中身もさることながら、いったい自分がどんなふうにリアルとネットを縦断したり横断したりすればいいのか、きっと自動カメラの前に顔を貼り付けてばかりいたら、すべてが「死に体」になるだろうと思い、大きな鉄木(ブビンガ)の卓上でたくさんの本を見せたり、動かしたりすることにした。書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。◆そこへ編集学校でテスト済みの、ときどきスケッチブックに太い字を書きながら話すということも混ぜてみた。けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。76歳には過剰だったのかもしれない。まあ、それはともかく、やってのけたのだ。◆今期のHCUのお題は「稽古と本番のAIDA」だった。すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。◆すでに今期の参加者全員がぼくの千夜千冊エディション『編集力』(角川ソフィア文庫)を課題図書として読んできてもらっていたので、随所に『編集力』からの引用などをフリップにして挿入した。たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。◆一方、ウイルス・パンデミックの中でこのAIDAを振り返るには、きっとこういう時期にこそ「平時と有事のAIDA」を議論しなければならないだろうと思い、話をしばしばこの問題に近寄せた。とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。◆とくに「有事」はエマージェンシーであるのだからこれは「創発」をおこすということであり、さらにコンティンジェンシーでもあるのだから、これは「別様の可能性をさぐる」ということなのである。このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。そのことに苦言を呈した。もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。◆もうひとつ強調しておいたのは、いまおこっていることはSARSやMARS以来のRNAウイルスの変異であって、かつ「ZOONOSIS」(人獣共通感染状態)の変形であるということだ。つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。◆そんな話をしながら、7時間を了えた。ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。, ◆世界中がウイルス・パンデミックの渦中におかれることになった。RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。◆ちなみに「変異」や「変異体」は21世紀の思想の中心になるべきものだった。せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。◆それにしても東京もロックダウン寸前だ。「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。そのうち放逐されるだろう。◆もともとぼくは外に出掛けないタチで(外出嫌い)、長らく盛り場で飲んだり話しこんだりしてこなかった。学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。下戸でもある。だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。◆これはギリとニンジョーからするとたいへん無礼なことになるのだが、ぼくのギリとニンジョーはどちらかというと孟子的なので、高倉健さんふうの「惻隠・羞悪・辞譲・是非」の四端のギリギリで出動するようになっている。たいへん申し訳ない。◆ついでにいえば動物園はあいかわらず好きだけれど、ディズニーランドは大嫌いだ。レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。◆スポーツ観戦は秩父宮のラグビーが定番だったけれど、平尾誠二が早逝してから行かなくなった。格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。ごめんなさい。子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。◆つまりぼくは、できるかぎりの脳内散歩に徹したいほうなのである。それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。◆ところで、3月20日に『日本文化の核心』(講談社現代新書)という本を上梓した。ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。◆ほぼ同じころ、『花鳥風月の科学』の英語版が刊行された。“Flowers,Birds,Wind,and Moon”というもので、サブタイトルに“The Phenomenology of Nature in Japanese Culture”が付く。デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。出版文化産業振興財団の発行である。◆千夜千冊エディションのほうは『心とトラウマ』(角川ソフィア文庫)が並んでいる最中で、こちらはまさに心の「変異」を扱っている。いろいろ参考になるのではないかと思う。中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。, ◆このところ、千夜千冊エディションの入稿と校正、ハイパーコーポーレート・ユニバシティの連続的実施(ビリヤード、遠州流のお茶)、講談社現代新書『日本文化の核心』の書きおろしと入稿、角川武蔵野ミュージアムの準備、ネットワン「縁座」のプロデュース(本條秀太郎の三味線リサイタル)、九天玄気組との記念的親交、イシス編集学校のさまざま行事などなどで、なんだかんだと気ぜわしかった。◆こういうときは不思議なもので、前にも書いたけれど、隙間時間の僅かな読書がとても愉しい。1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。◆さて、世間のほうでも隙間を狙った事態が拡大しつつあるようだ。新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。◆ウィルス(virus)とはラテン語では毒液とか粘液に由来する言葉で、ヒポクラテスは「病気をひきおこす毒」だと言った。けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。まさに隙間だけで動く。◆定義上は「感染性をもつ極微の活動体」のことではあるのだが、他の生物の細胞を利用して自分を複製させるので、まさに究極の生物のように思えるのにもかかわらず、そもそもの生体膜(細胞膜)がないし、小器官ももっていないので、生物の定義上からは非生物にもなりうる超奇妙な活動体なのである。◆たとえば大腸菌、マイコプラズマ、リケッチアなどの「バイキン」は細胞をもつし、DNAが作動するし、タンパク質の合成ができるわけだ。ところがウィルスはこれらをもってない。自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。だから他の生物に寄生する。宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。◆気になるのはウィルスの中核をつくっているウィルス核酸と、それをとりかこむカプシド(capsid)で、このカプシドがタンパク質の殻でできている粒子となって、そこにエンベロープといった膜成分を加え、宿主に対して感染可能状態をつくりあげると、一丁前の「完全ウィルス粒子」(これをビリオンという)となってしまうのである。ところがこれらは自立していない。他の環境だけで躍如する。べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。◆おそらくウィルスは「仮りのもの」なのである。もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。◆ということは、これは知っていることだろうと思うけれど、われわれの体の中には「悪さ」をしていないウィルスがすでにいっぱい寝泊まりしているということになる。たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。◆急にウィルスの話になってしまったが、ぼくが数十年かけてやってきたことは、どこかウィルスの研究に似ていたような気もする。さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。, ◆正月はどこにも行かず、誰にも会わず、とくに何も食べたいとも思わず、体もいっさい動かさなかった。まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。◆それでもおととい、マキタ・スポーツと遊談して(ギターの歌まねも聞かせてもらい)、きのう、山本耀司と十文字美信と語らったことで、すべてがディープ・シャッフルされ、たいへん気分がいい。◆そんなところへ多読ジムが始まった。木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。なかなか壮観だ。壮観なだけでなく、おもしろい。やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。ツイッターでは及びもつかない。参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。◆みんなが読み始めた本の顔触れも目映い。ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。◆須賀敦子『地図のない道』、アレクシエーヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』、木村敏『時間と自己』、野村雅昭『落語の言語学』、ユヴァル・ハラリ『21レッスン』、長沢節『大人の女が美しい』、赤坂真理『箱の中の天皇』、マット・マドン『コミック文体練習』、菅野久美子『超孤独死社会』、ハント他『達人プログラマー』、大竹伸朗『既にそこにあるもの』、ダマシオ『デカルトの誤り』、早瀬利之『石原莞爾』、斎藤美奈子『日本の同時代小説』、磯崎純一『澁澤龍彦伝』、グレッグ・イーガン『TAP』、原田マハ『風神雷神』。◆ふむふむ、なるほど。赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。◆高田宏『言葉の海へ』、インドリダソン『湿地』、田中優子『未来のための江戸学』、アナット・バニエル『動きが脳を変える』、有科珠々『パリ発・踊れる身体』、パラシオ『ワンダー』、イーガン『ディアスポラ』、伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』、中村淳彦『東京貧困女子』、浜野ちひろ『聖なるズー』、スーザン・ネイピア『ミヤザキワールド』、大澤真幸『〈問い〉の読書術』、中屋敷均『ウイルスは生きている』、小林昂『日本プラモデル60年史』、鷲田清一『人生はいつもちぐはぐ』、イサク・ディーネセン『アフリカの日々』、佐藤優『同志社大学神学部』。◆うんうん、よしよし。イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。カトめぐ、よくやっている。◆では、つづき。穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。◆実に愉快な本たちだ。ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。◆読書は好きなお出掛けのための身支度であって、アマプロまじりの極上ゲームの観戦体験で、つまりは組み合わせ自由の乱行気味の交際なのである。もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。, ◆令和のクリスマス(クリスマスは大嫌いなのだけれど、角川文庫のスケジュールで)、千夜千冊エディションの新刊『編集力』が街に並んだ。満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。◆第1章「意味と情報は感染する」に、マラルメ、ヴィトゲンシュタイン、ベンヤミン、カイヨワ、ロラン・バルト、フーコー、ジェラール・ジュネット、アガンベン、ジジェクをずらり並べた。現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。かなり気にいっている。◆第2章「類似を求めて」では、中村雄二郎の共通感覚談義を下敷きに、ポランニーの方法知、エドワード・ホールの「外分泌学」としてのプロクセミックス、ギブソンが提案したアフォーダンスの力、タルドの模倣法則、それに工学屋のモデリングの手法と認知科学の類似を活用したアプローチの方法を組み合わせた。なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。◆第3章「連想、推理、アブダクション」は文字通りの怪物チャールズ・パース様のオンパレードで、おそらくここまで「仮説的編集力)(つまりアブダクション)の骨法を解読してみせたものはないだろうと、自慢したい。鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。◆第4章「ハイパーテキストと編集工学」は、一転してヴァネヴァー・ブッシュやアラン・ケイやテッド・ネルソン以降の電子編集時代の「新・人文学」のありかたを問うたのだが、その前提にハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』をおいた。「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。◆まるごと自画自賛になってしまったが、ハイハイ・ハイ、まさに本気で自画自賛したいのだ。あしからず。編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。『編集力』は本気本格をめざしたのだ。ぜひ手にとっていただきたい。◆こんなに臆面もなく自画自賛をしたのは、最近とみに出回りはじめた「編集力がイチバン大事!」「編集思考バンザイ!」ふうの本が、あまりにも編集力を欠いているのが気になっていたからだ。あしからず。◆さて、ぼくの今年1年はどうだったかというと、青息吐息もいいところで、誰かに文句をつけるなどとんでもない、お恥ずかしい次第だった。◆千夜千冊を書くのもギリギリ、隔月ごとに締切りがやってくるエディションを構成推敲するのもやっとこさっとこ、イシス編集学校の伝習座や会合などにスタンバイするのもおっとり刀、依頼された原稿に手がまわるのはいつもカツカツ、そこへもってきて角川武蔵野ミュージアムの館長のお鉢がまわってきて逃げ隠れができなくなっている、というような状態で、結果、お世話になっているみなさんには不義理ばかりをしてしまった1年なのだ。ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。◆おまけに、体がヒーヒー言ってきた。やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。, この人には参っている。そうとう切れる。この数年間の読書のなかで、ずいぶん痺れさせてもらった。切れるだけではなく、用意も周到、背骨も頑丈だ。歴史でも現在でもない「歴史的現在」というものがかなりディープに見えていて、しかも鳥の目と虫の目と人の目がある。その目は地政的であり原マルクス的であるが、その使い方をまちがわない。, 日本のインテリ然とした連中には鳥の目と虫の目の、また人の目と鳥の目の両義的交換がなく、それぞれの「あいだ」がなんだかんだと抜け落ちる。「鍵と鍵穴」の関係にはそれなりに気がつく知識人はいるのだが、その鍵と鍵穴のあいだにも世界現象がすばやく乱れこんでいることが、捨てられる。それがハーヴェイにはない。  それでいてハーヴェイにはバネもある。専門は経済地理学で、ケンブリッジ大学で博士号を取得して、ジョン・ホプキンス大学教授、オックスフォード大学教授をへて、ニューヨーク市立大学教授などを歴任した。  そういうハーヴェイの経済地理学とはどんなものかと思って、かつて『地理学基礎論』(古今書院)と『空間編成の経済理論』(大明堂)を取り寄せてみたら、『地理学基礎論』(1969)はもとは“Explanations in Geography”という大著で、古今書院のものはその部分訳だったのだが、それでも理論地理学と計量地理学を批判的な足場にして、ここへ論理実証主義の哲学や行動主義の視線をぶちこんでいる。  そう書くとずいぶん荒っぽいようだが、それがそうとうバネが効いていて、巷間、ハーヴェイをマルクス経済地理学の大成者とよんでいる印象から想像するような、理屈っぽいものではなかった。ただし『空間編成の経済理論』(1982)のほうは上下2巻の大著のまま翻訳されていたが、これはラディカル・ジオグラフィの名をほしいままにするような理屈に満ちたものの、建築環境と資本の第二次循環の関係がひどくなっていることを多様に検証していて、ぼくには読むのがしんどかった。, そういうなかで一昨年、『新自由主義』(作品社)を読んだ。いっさいの偏向に迷わされることなく、すばらしくまとまっていた。  うーん、たいしたもんだ。これまで何冊ものグローバル資本主義批判や新自由主義批判を読んできたが、その多くが経済主義に陥っているか、旧来の自由論に先祖帰りしているか、さもなくばいささかヒステリックなアメリカ帝国主義批判になっているのに対して、これほどネオリベ・グローバリズムの発生・変遷・主張・誤解・限界をたくみにまとめたものはなかった。類書に『ニュー・インペリアリズム』(青木書店)や『ネオリベラリズムとは何か』(青土社)もあるので、それも読んでみた。  うん、うん、この3冊、いずれも冴えている。実は松丸本舗の昨年10月25日のオープン時に、セイゴオ式の“本の相場”を貼り紙する「本相」ボードで、ぼくはデヴィッド・ハーヴェイを赤い極太マーカーで“めちゃ褒め”しておいたのだが、それを見た小城武彦(丸善社長)と太田香保(イシス編集学校総匠)は『ネオリベラリズムとは何か』をまずもって入手したらしく、たちまちぞっこんになったようだ。, この本『ネオリベラリズムとは何か』は初めてハーヴェイを読む者には、たしかにかなり気分がいいだろう。  どんなことが書いてあるかというと、アメリカが20世紀後半、とりわけ米ソ対立解消以降において、「植民地をもたない帝国主義」をどのような反民主主義的戦略によって非共産主義国を“解放”させていったのか、そのことがどのように「ネオリベラル国家の資本主義政策」となっていったのか、それが有利なビジネス環境づくり、アカウンタビリティ(資金管理責任)の確立、コスト効率などの強権的波及などを通して、結局は「あらゆるリスクを公共部門に担わせ、利益のいっさいは私企業が吸い上げるという新自由主義システム」の完成に向かうことになったのか、そういうことの一部始終がまことにみごとに浮き彫りにしている。  とくに、ネオリベラルな政策がどんな民主主義をも愚民政策にしてしまったこと、そのためにはIMFやWTOの動きをもまんまとネオリベラル国家の得策に寄与させたこと、さらにはNGOでさえネオリベ政策の“トロイの馬”にしてしまったこと、そのくせ個人の「自由と責任」だけは巧みに目立つようにしたことなどを問題視して、企業国家主義というものがいかにアメリカを構造矛盾に追いこんでいくか、それが金融市場主義の姿をとるのはまだまだ病巣の一部であろうことを喝破してみせた。  これは胸がすくだろう。丸善社長や総匠が、それならさあ、日本はどうするかと潔い覚悟をしたにちがいないことも想像できる。実は鳩山首相が松丸本舗に来たときも勧めておいたけれど、さあ、読んだかどうだか。  しかし、胸がすいただけではあるまい。ハーヴェイはこの本の後半では、ハーヴェイ独自の経済地理学的洞察も見せているので、そこからは新しい21世紀思想の母型を垣間見ることができたはずなのである。, ハーヴェイは「地理的不均衡発展」の理論をもっている。これが「歴史的現在」としての現在社会を見通すのに、なかなか有効だ。  いま、世界の経済社会はきわめて高速で、度しがたい変動性(ボラティリティ)に富んでいるために、世界を空間的に一様化するような研究や理論は役に立たない。空間と時間がさまざまな地域を襲う不均等に着目し、そのうえでの見通しが必要になる。  実際、最近の世界論はあまりに視点が別々になっている。重層化が成功していない。環境主義者は地球を測定して温暖化や二酸化炭素や環境ホルモンを測定するが、それらの数値は一緒の図には並べられることがない。構成主義者は「低開発の解消」を標榜するけれど、人口・資源・労働力・開発技術力の認知についての算定がばらばらだ。政治学者は民主だ共和だ、自民だ労働だ社民だのの政体ばかりに気をとられ、経済学者はGNPや通貨レートや産業主義に傾いている。  そこでハーヴェイはこれらを重層化するべく一種の「場の理論」のようなものを構築しようとしてきた。この「場」は、下から突き上げる理論のための場で、それとともに多様で不均等で不揃いの「力」や「値」を思想として呑みこむための「場」なのである。そこに統計学も地理学も経済学も生態学も受け入れる。まさにハーヴェイ経済地理学の真骨頂である。  『ネオリベラリズムとは何か』の後半は、そのプレゼンテーションだった。とくに「資本」をあたかも自律的に動きまわる力だと思いこんでしまった連中に対して、「あんたがたが奪っていったものは、私たちが奪還するだろう」というメッセージ・プレゼンテーションをした。  いまや資本はさまざまに形を変えて、ありとあらゆる生活のネットワークの中に入りこんでいる。商品として、金融として、医療として、土地として。ほんとうはそこにはアンリ・ルフェーブルが言うような「余剰」があるはずなのだが、その余剰もさまざまに分割され組み合わされて「財貨の領土」とされていった。このような既存の資本領土に対抗するには、あるいはその一部を奪還するには、ハーヴェイは資本市場とはべつのもうひとつの「場」を用意して、そこから新たな価値の射出をなしとげ、それによって既存資本市場の一角を切り崩す必要を感じた創出をなしとげていく作業にとりくむ必要があったのである。, だいたいはこういうことをハーヴェイは『ネオリベラリズムとは何か』の後半にプレゼンタティブに書いたわけだったが、実はこのような新たな価値観創出の「場」のための視野と視点は、すでに『新自由主義』や、その前の『空間編成の経済論』(原題は『資本の限界』)のほうに原理的に用意されていたことでもあった。  何を用意したかといえば、ハーヴェイが組み立てた理論的な枠組みは要約すれば、次の二つの表にあらわれている。図1は多くの問題概念と重要思想をできるだけジェネレートして絶対的空間・時間的空間・関係的空間の3つに再構成したもの、図2は同じ概念と思想を対グローバリズムを意図してややマルクス主義的に再構成したものである。ハーヴェイはこの二つの表を行ったり来たりして、新たな「場」の生成を構想したのだった。  この二つの表を見くらべていれば、ハーヴェイの構想はなんとなく見えてくるだろう。, さて、話を今夜の狙いにすすめると、ぼくとしては『新自由主義』とともに『パリ―モダニティの首都』(青土社)や『ポストモダニティの条件』(青木書店)を紹介したいのだ。けれどもまずは、ともかくも『新自由主義』をかいつまんでおこう。  ごくごく論点を絞って、以下、箇条書きにしておくが、ハーヴェイがいったいどのように新自由主義を捉えたかというと、ざっとは次のような視点と論証なのである。, 第1に、ハーヴェイは新自由主義(ネオリベラリズム・新保守主義)をアメリカの「不正」と断じているものの、グローバリゼーションを推進した先進資本主義諸国がこぞって採用した国家体制とか政治体制とかとは、必ずしも捉えていない。  途上国・旧社会主義諸国との相互関連性のなかで滲み出してきた一種の世界システムとしての、現代資本主義の一時代様相だと捉えた。ということは、新自由主義はアメリカあるいはワシントン・コンセンサスの押し付けとはかぎらないということで、そういう押し付けがましい圧力と不正がしばしばあったにせよ(チリとCIAとシカゴ学派の関係のように)、実際にはそこに各国の内的要因が絡んでいたということになる。  それゆえ、イギリスや日本などの先進諸国が新自由主義を採択したのは、かれらが福祉国家主義、社会主義的オルタナティブ、コーポラティズムなどに対抗するために選択したことは事実だが、途上国では開発主義国家体制下の矛盾を突破するための新たな資本蓄積の方策として採用されたと見たほうがいいということなのだ。そこにはネオリベ受容における経済地理学的な「地域的不均等」があったわけだった。  しかし第2に、やはり新自由主義はそうした地域的不均等を“利用”して、階級権力の復興あるいは創設に大きな拍車をかけた。これが日本などでさかんに議論されている「格差社会」というものだ。  かくて新自由主義は、資本主義の発展を「マッドマネー型・カジノ資本主義型」(1352夜)の度しがたい金融依存に追いやって、まさに癒しがたいほど致命的なミスリードしてしまった一方で、新たな階級権力の創出についてはまんまと成功したわけである。たとえばロシア、たとえば中国、たとえばインドだ。ハーヴェイはそういうふうに見た。この見方はたいそう「抉られたバランス」に富んでいる。, 第3に、ハーヴェイはこうした特色をもつ新自由主義が、国民の“同意”を生んだのはなぜかという議論に分け入った。  その理由としてハーヴェイがあげたのは、1968年前後の反体制運動が提示した「自由」と「社会的公正」の表裏一体性を、その後の新自由主義が無残に分断してしまったことだった。そのために、アメリカでは新自由主義によって白人労働者の文化ナショナリズムが助長され、イギリスではコーポラティズムの失敗が促されて、サッチャリズムによる中産階級の動員が容易になったのである。この歴史的見方もバランスがいい。  第4に、ここが重要だが、ハーヴェイにとっては新自由主義は「市場原理主義」そのものではないということだ。ということは、この問題の議論の仕方は「大きな政府か、小さな政府か」にあるのでもなく、「市場か、国家か」にあるのでもなくて、新たなエリート層の確立が実力行使されていったことを検討しなければならないということだ。  わかりやすくいうのなら、新自由主義はその主張や理論や商品は、新エリート層の確立のためにはいくらでもねじ曲げられて実行されていったということなのである。  そのほか第5に、ハーヴェイは新自由主義国家がこれからもどこかに誕生してしまう可能性と危険性に警告を与え、第6に、地理的不均衡が南米などにもたらす歪みを警戒した。  また第7に、新自由主義が新保守主義と混血し、これからも混血するだろう異常を縷々叙述し、第8には、これが最終的な結論と仮説であるようなのだが、新自由主義は資本主義の有益な発展を阻害するということを、明確に指摘した。, これがごくおおざっぱなハーヴェイの論点だが、では、そうした動向のなかの日本の新自由主義はどうだったのかというと、本書には監訳者渡辺治の「日本の新自由主義」が40ページほど巻末収録されていて、それがいくぶん参考になるので、その見方を含めて要約しておきたい。  日本では1982年に中曽根政権が誕生し、いわゆる第二臨調の行政改革が始まったときに新自由主義の模倣もしくは導入がスタートしたという見方がしばしばなされるのだが、ハーヴェイ≒渡辺らによると、これは早計な見方だということになる。  たしかに佐藤公三郎・公文俊平・香山健一らのブレーンを擁した中曽根政権は、一見、新自由主義もしくは新保守主義の波頭を日本に展開したかに見えたけれど、それは早熟だったか、あるいは深刻な資本蓄積の必要性とはあまり関係がなかった。むしろ当時の日本は不況も第二次石油危機もすり抜けていて、べつだん金融主導の資本主義改革などに着手はしていなかったのだ。資本問題に懸念が出てきたのは細川政権時代のことである。ところが、このとき日本は舵をうまく切れなかった。  それをまとめて着手する気になったのは小泉政権になってからだった。つまり、日本の新自由主義政策は、もしも着手が必要だとするなら、その判断されるべき時期から10年以上も遅れたのだ。そのためはっきりいえば、小泉竹中改革はまことに跛行的でジグザク的なものとなる。  それにもかかわらず、小泉改革が諸手をもって大向こうに受け入れられたのは、ひとつには80年代の世界経済の主導性をジャパン・マネーや東アジアのタイガー・エコノミーがもっていたということ、もうひとつには、戦後日本が日米同盟などによって福祉国家体制がもつ矛盾から免れていたということ、すなわち日本が「階級妥協」を促進していなかったことによる。  かくて日本資本のグローバリゼーションは輸出主導型成長ゆえに大幅に遅れ、そのせいで開発主義的統合がうろうろすることになり、結果的には、アメリカではリーマン・ショックに集約された最悪の危機が剥き出しになったようには、そこまではひどくはならなかった。  ちなみに小泉政権が「自民党をぶっこわす」と言ったのは、新自由主義を日本に広げるには自民党の官民一体の政治システムがきわめて不都合であったからにすぎず、とくに自民党の刷新を望んだのでも、まして21世紀日本建設に邁進したものでも、なかった。, まあ、こういうことである。  が、この話はこのくらいにしておく。次に、ぼくがおおいに“感じた本”となった『ポストモダニティの条件』(吉原直樹監訳)のほうを知ってほしい。さきほど書いたように、この本こそは、きわめて刺激的な記述に富んでいる。  本書は青木書店の重厚なシリーズ「社会学の思想」の第3冊目にあたっていて、アンソニー・ギデンズの『社会理論と現代社会学』、マニュエル・カステルの『都市・情報・グローバル経済』、ジェームズ・コールマンの『社会理論の基礎』、アラン・リビエッツの『レギュラシオンの社会理論』などとともに並んでいるのだが(そこにルフェーブルの『空間の生産』、ギアーツの『現代社会を照らす光』といった古典もまざっているのだが)、これらのなかでも俄然、異彩を放っている。, 記述はジョナサン・ラバンの『ソフト・シティ』(1974)から始まる。邦訳は『住むための都市』(晶文社)だ。  70年代のロンドンの状況を擬人化したもので、都市が「官僚やプランナーや企業の犠牲になっている」と知識人たちによって批判されるところを逆手にとって、都市はそんなにやわくない。その迷宮性・百科事典性・劇場性はめったに失われないとラバンが述べた。ここにはル・コルビュジエ(1030夜)は、もういない。, ハーヴェイはいったん、このようなラバンの見方にポストモダンの萌芽を汲みとり、そこにトマス・クーン以降のシステムのゆらぎやシンディ・シャーマンの変装写真の多様性をくっつけ、テリー・イーグルトンが「典型的なポストモダニズムは冗談が好きで、自虐的で精神分裂的である」と指摘したことに、人々がしだいに巻きこまれていることを、暗示する。  が、はたしてそれはポストモダニティのみの特徴なのか。この本はそこを問うていったのだ。  そこでハーヴェイが持ち出すのはボードレール(773夜)の『近代生活の画家』(1863)である。『ソフト・シティ』の100年前の文章だ。このあたりが、うまい。ボードレールがそこで述べているのは、パリの状況が「うつろい」「はかなさ」「偶発性」「断片性」「流転」「束の間」に見舞われているということだったのだ。イエーツ(518夜)だって同じことを言っていた、「中心が力を失い、すべてはばらばらだ。全くの無秩序が世界に放たれる」。, そうなのだ。実はモダニティこそが歴史の連続性に対する過信を打ち破ったのである。ピカソとシュンペーターの「創造的破壊」はモダンの象徴作用なのである。だからこそベンヤミン(908夜)はパリのアーケードにパッサージュ(通過者)としての「アウラ」を感じとったのだ。何がいまさらポストモダンであるものか。  こうしてハーヴェイは、ニーチェ(1023夜)の破壊と持続の意志、ウィリアム・モリスのレッサー・アーツ、ジェイムス・ジョイス(999夜参照)の多義性、ロシア・フォルマリズムと構成主義、ガートルド・スタインの解読不能詩、イタリア未来派(1106夜)の運動力学的表現実験、マックス・エルンスト(1246夜)やマン・レイ(74夜)やモホリ=ナギ(1217夜)のモンタージュとコラージュの手法、非ユークリッド幾何学の確立(1019夜)、ヒルベルトの超数学、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』、量子力学と相対性理論などを次々にあげて、モダンがすでにラバンが指摘したポストモダンの大半をさまざまに告知していたことを列挙する。, ハーヴェイが言いたかったことは鮮明だ。  すでにモダニズムこそが、希望とニヒルを、革新と保守を、自然主義と象徴主義を、ロマン主義と古典主義を綯い交ぜにもっていたのである。そんなものはいまさらではなかったのだ。集合的記憶を巧みに持ち出す磯崎新(898夜)やアルド・ロッシの建築作法は、本人の意図に反して決してポストモダンではなかったのだ。  さてさて、そうなると、ポストモダニティとはいったい何なのかということになる。ポストモダンが“出し殻”ではないとしたら、いったい何をモダンから奪い、何を付け加えたのかということになる。  あきらかなことは、第1には、ポストモダンにおいてはボードレールやベンヤミンが指摘したことが異質なものではなく、ことごとく需要されるものとして吸収されてしまったということだ。これはフォーディズム(マスプロダクト・マスセール)の波状攻撃が資本主義社会のどの場面においても、いまだに減速していないということをあらわしている。ポストモダンとは「モダンの大食い」ということなのだ。ポール・ヴィリリオ(1064夜)が「それなら事故を持ち出すしかない」と言っているのがよくわかる。  第2には、すべては何が何でも商品として統合されているということだろう。これはポストモダンは後期資本主義の代名詞にすぎないということで、さらに加えれば商品化したところで、そこで勝ち残るのは一部の商品と市場性だけだということになる。  この万事商品主義に抵抗できたのはベルイマンから唐十郎におよぶ1960年代の「負の過剰」であっただけだろう。さもなくば、リオタールの「ローカルな決定論」、アルチュセールの「重層的決定」、スタンリー・フィッシュの「解釈共同体」、ケネス・フランプトンの「地域的抵抗」、フーコー(545夜)の「ヘテロトピア」、ブルデュー(1115夜)の「ハビトゥス」のようなものを持ち出すしかない。  第3に、ポストモダンは「グーローバル・マネタリズム」と「現在の喪失」によって成り立っているという特徴をもつ。これは先物市場やデリバティブのことを思えばすぐわかることで、実はグローバル市場は「現在」にではなく、証書化(証券化)された「明日以降の時間」のためにだけ動いていたわけなのだ。それがブレトン・ウッズ体制の解体以降、ずっと変わっていない性質だったわけである。そこに新自由主義や新保守主義がやすやすと台頭することになったこと、あえて説明するまでもない。, ずいぶん勝手なところだけを摘まんだが、こうした見方を随所にちりばめたうえで、ハーヴェイが『ポストモダニティの条件』の終わり近くの第22章で突き放すのは、結局のところ、次のことだった。  ポストモダンには「規模の経済/範囲の経済」「均質性/多様性」「目的/偶然」「公共住宅/ホームレス」「メタ理論/言語ゲーム」というような、つまりは「市場原理的なもの」と「そのフレキシブル化したもの」のデュアルな対比しかないのではないかということだ。  ハーヴェイには、いつもこういう突き放しがあるのだが、ぼくはそこを買っている。やったじゃないか、そう、そう、こういう手しかないんだよ。あとはミメロギアするしかないんだよ。そういう快哉だ。  ちなみに、この突き放しは、またしても対比対照表になっている。そのことを図3で一覧しておいた。よくよく眺めて、これらのどちらにもあてはまらない「例外」を想像してほしい。おそらく感情的なものと身体的なものばかりが浮かぶにちがいない。なぜなら、メンタルでソマティックなものこそ、ポストモダンからはみ出した「あいだ」に潜んでいるものであるからだ。  では諸君、よろしかったでしょうか。これがデヴィッド・ハーヴェイの略図原型です。おあとがよろしいようで‥‥。, 【参考情報】 (1)デヴィッド・ハーヴェイは1935年生まれのイギリス人。ケント州ギリンガムに育ったようだ。そのころ風土や地理や景観に惹かれ、世界の切手を集めていた。なるほど、なるほど。ケンブリッジ大学で地理学を修めたが、早くに地理哲学やメタジオグラフィの必要を感じていたらしく、やがて経済地理学あるいは社会経済地理学の探求に乗り出して、そこから論理学、実証主義、マルクス理論、社会学、分析哲学、身体論、さらには文学、アート、グラフィズム、映像、写真などの成果をとりこみながら、独自の社会時空論のような領域を打ち立てていった。オックスフォード大学教授、ジョン・ホプキンス大学教授、、ニューヨーク市立大学教授を歴任。, (2)ぼくは今夜の千夜千冊では、ハーヴェイの思想形成史にまったくふれなかったけれど、初期の地理学研究がすでに計量地理学から初めて脱却した画期的なものであったことは、『地理学基礎論』(古金書院・原著1969)を覗いてみても、すぐわかる。そこにはカルナップらのウィーン学団から学んだ論理実証主義がはやくも生かされていて、きわめて意図的な方法意識を横溢させていた。, しかし、その社会理論性という点からすると、当時のハーヴェイはいまだマルクス理論の咀嚼にはとりくんでいなかったようで、そのころの理論的組み立ては、本人の弁によると「フェビアン社会主義に近いようなもの」だったという。マルクスに本格的にとりくんだのは、ベトナム反戦下のジョン・ホプキンス大学に移って、学生たちと『資本論』や『経済学批判大綱』にとりくんでからのことだった。その成果の上で書かれたのが『都市と社会的不平等』(TBSブリタニカ・原著1973)や『都市の資本論』(青木書店・原著1975)である。自由主義と社会主義の批判的な比較検討はこのへんから始まった。アンリ・ルフェーブルの影響も強かったようだ。  こうしてハーヴェイは資本主義を空間時間的に再構成するという試みに挑んでいく。それがぼくにはいささか退屈だった『空間編成の経済理論』上下(大明堂・原著1982)だったのである。ハーヴェイ自身は「この本が自分の一番のお気に入りだ」と言っているので、たぶんぼくの読み方が雑だったのだろう。, (3)本文でもふれたように、ハーヴェイの真骨頂は、ぼくには『ポストモダニティの条件』(青木書店・原著1989)、『パリ—モダニティの首都』(青土社・原著2003)にある。都市の経済地理学に肉薄しながら、時代社会の多様な断面を掬い上げていく手法は、実に鮮やかなのだ。この二つの著書のあいだに、『公正・自然・差異の地理学』(1996)を書いているようだが、ぼくは未見だ。いずれにしても、これらの著作を通しているうちに、ハーヴェイはグローバル資本主義の仮面に気が付き、それがポストモダン幻想と表裏一体になっていることに、がまんがならなくなったのだ。  こうして、『ニュー・インペリアリズム』(青木書店・原著2003)、『新自由主義』(作品社・原著2005)、『ネオリベラリズムとは何か』(青土社・原著2005)がたて続けに書かれたのだった。それにしても、デヴィッド・ハーヴェイが本気で読まれるようになるのは、もう少しあとのことになるだろう。というのも、われわれはいま、地学と地理学とマルクス学のいずれをも半分以上喪失したままであるからだ。  実は3日前の4月8日、「中央公論」の対談で佐藤優さんと初めて出会ったのだけれど、佐藤さんこそはマルクスを本気で読みなおしていた。そう、そう、これがなくてはハーヴェイも浮かばれないのである。, (4)ちなみに、本書『新自由主義』はとても編集がゆきとどいている。渡辺治による「日本の新自由主義」についての論文が付加されているだけでなく、基本用語解説、事項索引、人名索引もよくできている。監訳者の渡辺治は一橋大学社会学研究科の教授で、『高度成長と企業社会』(吉川弘文館)、『憲法改正は何をめざすか』(岩波ブックレット)、『企業支配と国家』『戦後政治史の中の天皇制』(青木書店)、『構造改革で日本は幸せになれるのか?』(萌文社)などがある。本書の翻訳には、森田成也、木下ちがや、大屋定晴・中村好孝が分担したようだ。.
 影響を及ぼさずには無理強いできないし、 次のページでは、 残酷な冗談のようにしか思えない。 表紙に、小泉の写真があるのは、おかしいよね。ハーヴェイは、完全な日本パッシングで、中国にはかなり触れているけど、日本にはほとんど触れていない。 商品化は適切なのか(たとえば宗教行事や宗教シンボルの商品化)、 ある特殊(姿形やジェンダーなど)によって 集団的営為や社会的きずなの中心としては 劣悪な労務管理の様子についての →ITに対する興味関心増大, 80年代に巨大都市が財政破綻して大企業に買収されたという話をこの本を読んで知った。ロボコップの世界観はこのことを踏まえていたのかと思った。新自由主義の元では政府が積極的に自由市場に介入することで、かえって自由が損なわれてしまう。. このラインをどこに引くかをめぐる違いを反映している。 生きた民主主義的制度という保護の覆いをはぎ取られ、
 社会は いずれ破壊されてしまうことになるだろう。

 似たような話は、 という、  しかし、仕事を失った人々や、 新自由主義化による女性の権利の喪失は

同時に その背後に 複雑な現実があることを 伝統的な社会構造の内部で 誰が所有権を行使したり料金を得るべきなのか 資本主義消費文化のあざけるような世界、 夢や欲望、野心、希望、疑い、恐れをもつ生きた人間としてである。 その工場を経営する台湾人事業家は、 社会関係のネットワークに埋め込まれ多様な形で 見ていきたいと思います。 フレキシビリティを最大化するために 短期契約が選好される。 あらゆるものを アメリカのほとんどの州で禁止されているが、 自己満足的な議論は、 支払いが数か月遅れたり 時にはまったく支払われない給料」。  新自由主義化は、 〔K.Bales, Disposable People: New Slavery in the Global Economy  見境なく使ったり、または使わないままにしておくことさえ 長期的な約束よりも 短期的な約束の方を多いの好むと公言しているのだ。 社会的連帯を構築し集団的意思を表明するための 与えてくれる広大なインフォーマルな経済から アメリカの経済界は「政治活動委員会pacs」を形成し、共和、民主両政党に制限なしに献金出来ることで政治に強大な影響力を持ち、彼らに優位な政策を作り出している。 IMFは外貨の不足した国を対象に緊急融資を行うが、その条件として民営化、規制緩和を強要する。そうして多国籍企業が新たな市場を得ることができ、より安価な労働力を得ることが可能となる。IMFの目的と機能は世界の主要金融機関を国の債務不履行の危険性から守ることである。つまり投資へのリスクを投資家が軽減できる仕組みとなっている。 国民を犠牲にさせてでも債務返済をさせようと国家に介入するのだ。


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